主な事業の紹介

企画展

地下1階の「企画展示室」では企画展として、毎年テーマを変えて約30分の映像作品を制作し、大型スクリーンで上映しています。また、タッチパネル端末で、そのテーマに沿った被爆体験記や追悼記を紹介するほか、関連の深い遺品なども展示しています。

企画展資料の貸出

映像作品は過去の企画展(2013年以降)も含めてDVDで貸出しています。電子メールまたはファクスでお申込みください。

開催中の企画展

暁部隊 劫火ヘ向カヘリ -特攻少年兵たちのヒロシマー

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太平洋戦争末期、陸軍の「特別幹部候補生」として船舶司令部(通称「暁部隊」)に配属され、江田島に集められた少年兵たちは、㋹(マルレ)と呼ばれた一人乗りのベニヤ板製モーターボートで敵艦を撃沈させる特攻訓練を受けていました。

しかし、死を覚悟していた彼らを待ち受けていたのは特攻ではなく、1945年8月6日の原爆投下でした。「本務を捨てても広島市の救護に立て」との命令を受け、急行した彼らが死の街広島で何を見て、何を感じたのか。彼らの心情に迫ります。

開催期間

2024年3月1日(金)ー 2025年2月28日(金)

展示会場

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

地下1階 企画展示室

展示内容
(1)大型スクリーンによる映像展示

被爆体験記をベースにした映像作品を約190インチの大画面でご覧いただきます(約30分)。

(2)元隊員たちの被爆体験記

会場内にある情報端末で、被爆の状況を克明に記した被爆体験記18編を、日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語の4言語で閲覧できます。

(3)資料等の展示

会場内に、関連資料等を展示します。また、館の南側入口に、㋹艇の実物大レプリカ(長5.6m×幅1.8m×高1.0m)を展示します。

これまでの企画展

2023年(2023/3/15-2024/2/29)

空白の天気図 −気象台員たちのヒロシマー

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1945年8月6日、原爆は広島市に甚大な被害をもたらしました。爆心地の南方約3.7kmに位置する広島地方気象台でも、爆心に面した窓ガラスは割れ、職員の中には重傷を負うものが少なくありませんでした。

その状況下でも、「気象観測を担う者は、現象についての時間的な変化を絶えず記録しなければならない」と、最新の気象データを中央気象台へ電報で伝えるため、3名の若手台員が市の中心部へ向かいました。しかし、そこで彼らが目にしたのは、まさに地獄絵図と呼べるものでした。

さらに、被爆後わずか1か月後に広島を襲った枕崎台風は原爆被害を一層深刻なものにしました。気象台員たちはこの二重災害の被害を後世に教訓として伝えようと、現地へ出向いて一人ひとり詳細な聞き取り調査を行い、貴重な調査報告書にまとめました。

今回の企画展では、観測者の視点から記録された被爆体験記をもとに被爆の実相を明らかにします。

2022年(2022/3/1-2022/12/29)

震えるまなざし -撮影者たちが残したことば-

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1945年8月6日、広島に原爆が落とされた時、湧き上がるキノコ雲をカメラに収めた人たちがいました。それが世界で最初に使用された原子爆弾によって起こされたことを知る由もない中、撮影者は眼の前で起きているとてつもない光景に向かって、「カメラを持っていれば、真実としてそういうものを撮りたい」(深田敏夫、当時16歳)と、本能的にシャッターを切ったのです。
軍所属のカメラマン、写真館の店主、新聞社に勤務する中学生等、全く異なる職業や立場の撮影者たちが、目をそらしたくなる気持ちを押し殺しながら、ファインダーに映る被爆後の悲惨な状況をいかにしてフィルムに収めたのか。そしてその体験を、彼らの鋭い描写力でどのようにことばに表したかを明らかにします。

2022年 特別展(2022/8/1-2022/8/31)

開館20周年記念特別展示「家族の肖像-引き裂かれた絆-」

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 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は平成14年8月1日に開館し、今年で20周年を迎えます。開館以来、当館は原爆で亡くなった方のお名前やご遺影を登録・公開してきました。登録の際に、故人のご遺影とともに家族写真が寄せられることも多く、これらを大切に保管してまいりました。

 このたびの特別展示では、家族写真の中から、被爆前に撮影された約200枚を選び、円周約55mの平和祈念・死没者追悼空間に展示します。

 こちらを見つめる一人一人のまなざしから、人の命だけでなく、家族の絆さえも一瞬にして奪った原爆の恐ろしさと、平和の尊さを感じ取っていただければと思います。

 また、体験記閲覧室では、それら家族写真の中から6家族に焦点を当て、それぞれの家族の物語を紹介します。

2021年(2021/3/1-2022/2/28)

わが命つきるとも-神父たちのヒロシマと復活への道-

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広島に原爆が落とされた1945年8月6日、イエズス会の幟町教会(爆心地から約1.2キロ)には4名の外国人神父がいました。2名は重傷を負いましたが、皆で力を合わせて教会の仲間や隣家の人を救い出します。


一方、広島市郊外、祇園町長束のイエズス会修練院(爆心地から約4.5キロ)へは、救いを求めて100名近くの被爆者たちが詰めかけ、8月6日の午後には野戦病院のような状態となりました。長束修練院の院長、アルペ神父は大学で医学を専攻した経歴があり、「今こそ私が身につけていた医学の知識を生かす時」と、直ちに自室を手術室に充て、他の神父や修道女たちと共に不眠不休の治療にあたりました。


被爆後の状況を克明に描いた外国人神父たちの体験記を通して、ヒロシマの復活への道をたどります。

2020年(2020/1/1-2021/2/28)

時を超えた兄弟の対話 ―ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記―

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画家としての才能を、反戦・核兵器廃絶を訴えることに全てささげた四國五郎(1924-2014)。そのきっかけは、最愛の弟・直登(1927-1945)が原爆により18歳で短い生涯を閉じたことでした。

「死んだ人々に代わって絵を描こう。戦争反対・核兵器廃絶を。芸術になろうがなるまいが...」弟の死が兄にこう決意させたのです。

企画展では、被爆当日から亡くなるまで、病床でつづられた弟・直登の日記を中心に、兄・五郎の追悼文や作品を紹介しながら、時を超えた2人の対話を再現します。

2019年(1/1-12/29)

流燈 広島市女原爆追憶の記 最も多くの犠牲を出した女学校の記録

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被爆当時、現在の中学生以上の生徒たちは、食糧生産や軍需工場に動員され。約7,200名の子どもたちが犠牲となりました。中でも、建物疎開作業のため爆心地に近い屋外で作業をしていた広島市立第一高等女学校は666名の生徒が亡くなりました。13回忌を迎えた1957年(昭和32年)8月、遺族による追悼集『流燈』が刊行されました。企画展では、『流燈』に掲載された体験記を中心に遺影や関連資料を展示しました。

2018年(1/1-12/29)

星は見ている―全滅した広島一中一年生父母の手記集

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1945年8月6日早朝、広島の街には、炎天下で作業する子どもたちの姿がありました。爆撃からの延焼を防止するため、防火帯をつくるという建物疎開作業に従事して、犠牲となった広島県立広島第一中学校生徒の遺族が思いを込めて綴った『星は見ている』、この追悼集を題材に原爆がその家族に何をもたらしたのか、子どもたちは何を訴えて亡くなっていったのか、突然に目の前から消え去ったわが子への思いを感じていただきました。

2017年(1/1-12/29)

原爆体験記―ヒロシマ原点の記録―その2

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1950年、広島市は初めて市民から原爆体験記を募集しました。まとめられた「原爆体験記」は広く配布し、原爆の悲惨さを訴えるはずでした。しかし、朝鮮戦争の勃発による東西冷戦の激化を受け、8月6日の平和祭は直前に中止となり、「原爆体験記」も配布されず、倉庫に眠ったままとなりました。被爆わずか5年後に書かれたヒロシマ原点の記録、生々しい記憶を基に記された体験記から、戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いを伝えました。

2016年(1/1-12/29)

原爆体験記―ヒロシマ原点の記録―

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1950年、広島市は初めて市民から原爆体験記を募集しました。まとめられた「原爆体験記」は広く配布し、原爆の悲惨さを訴えるはずでした。しかし、朝鮮戦争の勃発による東西冷戦の激化を受け、8月6日の平和祭は直前に中止となり、「原爆体験記」も配布されず、倉庫に眠ったままとなりました。被爆わずか5年後に書かれたヒロシマ原点の記録、生々しい記憶を基に記された体験記から、戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いを伝えました。

2015年(1/1-12/29)

原爆の子 広島の少年少女のうったえ

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被爆から6年、広島の街が復興へと歩む中、子どもたちが書いた被爆体験記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が出版されました。帰らない父母を待ちながら「お父ちゃん、お母ちゃん」と泣いた日々、二度と会えなくなったやさしい兄や姉、かわいい弟や妹たちの思い出。今も読み続けられている被爆体験記集を紹介し、子どもたちが体験した戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いを伝えます。被爆時小学校4年生以上の子どもたちが執筆した被爆体験記38編を紹介しました。

2014年(1/1-12/29)

原爆の子 広島の少年少女のうったえ

チラシ

被爆から6年、広島の街が復興へと歩む中、子どもたちが書いた被爆体験記集「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が出版されました。帰らない父母を待ちながら「お父ちゃん、お母ちゃん」と泣いた日々、二度と会えなくなったやさしい兄や姉、かわいい弟や妹たちの思い出。今も読み続けられている被爆体験記集を紹介し、子どもたちが体験した戦争や原爆の悲惨さ、平和への思いを伝えます。被爆時小学校3年生以下の子どもたちが執筆した被爆体験記67編を紹介しました。

2013年(1/1-12/29)

ヒロシマ復興への歩み ―被爆後の混乱を生き抜く―

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原爆で家族を失い自らも傷ついた人々は、食糧や物資の不足に苦しめられ、放射線の後障害におびえながらも生活再建へと歩み始めました。被爆後の混乱の中を生き抜いた人々の姿と復興への歩みを紹介しました。

2012年(8/1-9/30)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館開館10周年記念特別企画展 失われた爆心の街~原爆死没者の遺影と被爆体験記から~

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開館10周年を記念し、特別企画展を開催しました。現在の平和記念公園周辺に焦点をあて、この地域で被爆した方々の遺影と被爆体験記を展示し、また、この地域の被爆前の写真、当館建設時に発掘された被爆資料や地層の断面標本などを紹介しました。

2012年(1/2-12/29)

しまってはいけない記憶―家族への思い―

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迫りくる火の手に、助けることができないまま、亡くなった我が子、あの朝、「いってきます」と元気に出かけたまま、行方不明となり戻ってくることのなかった姉、焼け崩れた店跡から、息子が贈ったベルトの金具とともに、発見された父の遺体、十分な治療が受けられず、ただ、苦痛に耐えて亡くなった母。被爆の惨状と亡くなった家族への思い、平和への願いを紹介しました。

2011年(1/2-12/28)

しまってはいけない記憶―さし出された救いの手―

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だれもが我が身のことで精一杯の中、見も知らぬ人の声に立ち止まり、必死で救出活動をする人、被災者に貴重な食べ物や衣類を提供する人がいました。救護所では、多くの人が寝食を忘れて看護に携わっていました。火の迫る中での救出、思いもかけぬ親切、必死の看護、苦しい時にさし出された救いの手は、希望を失いかけた被災者に生き抜く勇気を与えました。

2010年(4/1-12/28)

しまってはいけない記憶―国民義勇隊と建物疎開―

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1945年8月6日、広島市では市内及び周辺町村や職場から多数の国民義勇隊員が出動し、動員学徒たちと共に建物疎開の作業に参加していました。原子爆弾がさく裂し、逃げ惑う隊員たち。急ぎ救援隊を送り出す地域や職場の混乱。じっと待つ家族や同僚の不安。そして、変わり果てた姿で帰ってきた隊員への必死の看護。こうした状況を紹介しました。

2009年度(4/1-3/31)

しまってはいけない記憶―救護の場所を求めて―

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一発の原子爆弾により、広島市は一瞬にして廃虚と化し、多くの人々が死傷しました。薬も食糧もなく避難する多くの人々、焼け残った建物や周辺の施設には被災者を救うための救護所が設置されました。そこには治療してもらうため、あるいは食糧を求めて被災者が集まりました。こうした建物や施設の様子が書かれた体験記を中心に紹介しました。

2008年度(4/1-3/31)

しまってはいけない記憶―水を求められて―

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原爆で重傷を負った人は、周囲に「水をください」と求めました。ある人は水を与えると死んでしまうと思い、与えませんでした。また、最後の願いをかなえてあげようと、水を与えた人もいました。しかし、水を飲んだ人も、飲まなかった人も、多くはまもなく亡くなってしまいました。その時の対応を今でも後悔している人がいます。被爆者から水を求められた時の様子が書かれた体験記を中心に紹介しました。

2007年度(4/1-3/31)

しまってはいけない記憶―助けを求める声を後にして―

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原爆により広島の街は大混乱に陥り、多くの人が助けを求めましたが、その後、起こった火災などによって、十分な救助活動はできませんでした。助けを求められながらも、助けることができなかった人々の体験記を中心に紹介しました。

2006年度(4/1-3/31)

しまってはいけない記憶―焦土をさまよう―

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原爆により焦土と化した広島の街には、助けを求めて避難する負傷者や、家族・知人の安否をたずねて探し回る人など、さまざまな人々が行き交っていました。被爆者一人一人が当時歩いた道筋をたどり、その途中で見聞きした被爆の惨状を、被爆者自身が書いた体験記を中心に、地図や関連写真などとともに紹介しました。

2005年(7/8-9/30)

被爆60周年 広島・長崎共同企画展 しまってはいけない記憶―体験記にみる被爆の実相

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体験記を中心に、広島・長崎の原爆被害を伝えました。「戦前」、「戦時下の生活」、「原爆投下」、「救援・救護」、「消えない苦しみ」、「断ち切られた家族の絆」、「動員学徒の犠牲」、「平和への願い」の各コーナーを設け、体験記と関連資料を紹介しました。

2005年度(4/1-3/31)

しまってはいけない記憶―体験記にみる被爆の実相―

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体験記に綴られた、あの日の記憶。 自らの痛み、家族を失った悲しみ、いつ現れるかもしれない原爆症への不安。体験記を通して原爆が人間にもたらしたものを紹介しました。

2004年度(4/1-3/31 前期4/1-9/30 後期10/1-3/31)

しまってはいけない記憶―体験記にみる救援・救護活動

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自分の負傷もかえりみず、負傷者の治療を続けた医師。応援要請を受け県外から入市、寝食をわすれ、患者の手当てにあたった看護婦など、救援・救護活動に従事した人々の体験記を紹介しました。

2003年度(4/1-3/31 前期4/1-9/30 後期10/1-3/31)

しまってはいけない記憶―肉親を奪われて―

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原爆で親や子、妻や夫あるいは兄弟姉妹を失った方々の体験記及びそれに関連した遺品等を紹介し、被爆者一人ひとりの想いを伝えました。

2002年度(8/1-3/31 研修室の展示は9/30まで)

しまってはいけない記憶―被爆体験記にみる動員学徒―

チラシ

動員学徒の被爆の概要と体験記・追悼記を紹介しました。

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