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被爆体験記・原爆詩

被爆体験記

被爆体験について

被爆地 広島、性別 女、被爆時の年齢 満9歳

三好妙子(みよしたえこ)

 8月6日、家の廊下ろうかに座っていた。その時、稲妻いなずまの様な光が頭上を通りすぎ、真っ暗になり、やがて明るくなった時、母、祖母、私の三人は、きとばされ、床下ゆかしたに落ちていた。

 身体中ガラス片が、つきささり、切りさかれ、血しぶきがき出ていた。母ののどには大きな穴があき、言葉を発する度に、その穴から赤黒いメンタイコのような物がたれ下がった。私は、泣く事も物を言う事も忘れ、黙(だま)ってそれを見ていた。母は、近くにあった布で、私の身体にその布をさいて、必死に結んでくれた。苦しい息をはきながら、一滴いってきの血でも止めてやりたい、というように。その母の手は真っ赤で、ヌルヌルと血で光っていた。

 「火がまわって来るぞオ。早くにげろ」とさけぶ声がして、私はだれか男の人のわきにかかえられた。「お母アちゃーん」始めて私はさけんだ。その人は、私をいて、ガレキの上を電車道へ向かった。母と祖母が、ガレキの向こうに見えなくなってゆく。母が、真赤な手をかすかにるのが見えた。それが、母と私の最後の別れでした。

 電車道は、黒こげの人がフをぶらさげて、血でぬりつぶされた身体で、ハダシで、ただだまってげていた。不思議と静かだった。

 川土手で、真っ赤にもえさかる空を見ながら、一夜を明かした。まわりに、中学生らしい黒い人形の様な人達が、たくさんころがっていた。「お母さん」「お水を下さい」「熱いよう」その声も、だんだん小さくなり、やがて息絶えていった。さびしくもおそろしくもなかった。みんな人の形をした感情のないかたまりでしかなかった。傷だらけの身体が痛みを感じたのは、三日位たって、収容所で血のりのついた布を傷口からはがされた時だった。思いっきり泣いた。そして、そのまま意識を失った。

 気がついた時は、戦争は終わっていた。でも、その日から私の苦しみは始まった。身体中につきささった硝子がらす破片はへん、傷口をはいまわるうじ虫。そして、毎日母を呼び、子供の名を呼びながら死んでゆくまわりの人達。そんな収容所での苦しい日々。板の上にかされて、私は、母との最後の別れの記憶きおくだけは、頭の中に毎夜鮮明せんめいかんできた。夜空の美しい星をながながら、幼い私は母を思い出し、毎夜静かに泣いていた。

 あれから五十年。両親や兄を原爆げんばくで失い、自分は学徒動員に行っていて、一人生き残った主人は、思い出すのがつらいのか、決して、あの日の事は語らない。私も思い出したくなかった。でも、いい古された言葉だけれども、戦争がどんなに悲惨ひさんなものか、こんな話が信じられない今の子供達に、どうしても知って欲しい。そして、この平和がいつまでも続く事をいのながら、ペンをとりました。

出典:広島平和文化センター(編)『被爆体験記集 被爆地別 五十音別 第103巻』厚生労働省 2002 p.70


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