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被爆体験記・原爆詩

被爆体験記

被爆体験について

被爆地 広島、性別 女、被爆時の年齢 満13歳

小田直子(おだなおこ)

 昭和20年8月6日、その日は暑く、朝から上天気で雲一つない日本晴れであった。

 そのころ広島女学院の2年生だった私は、雑魚場町ざこばちょう家屋疎開かおくそかいあとかたづけの作業に行かなければならなかった。

 「およう」、「およう」、校庭に集まった先生と生徒。これが最後の朝としてむかえなければならないと、だれが想像し得たでしょう。

 「花もつぼみの若桜」と元気に歌いながら雑魚場町ざこばちょうに向かって学校を出発したのが午前7時半、着いたのは8時過ぎであったでしょうか。

 そのころいつも携帯けいたいしていた救急袋きゅうきゅうぶくろを下に置いて仕事に立った時である。だれかの「B29よ」というさけび声が終るか終らないかの中に、一瞬いっしゅん閃光せんこうがきらめいて、私は意識を失った。

 それから、どのくらいの時を経過していたのであろうか。不意に気がつくと、あたりは真暗で、私は地上にたおされていた。もうもうと立ちこめるほこりに息もできない有様であった。ああ、どうしよう。私は今まで一体どうしていたのであろう。不安とさびしさでむね一杯いっぱいであった。起き上ろうとすると、足の方でだれか人の身体にさわる感じがした。「お母ちゃん、お母ちゃん、助けて」と泣きさけぶ声。私も泣いていた。自分はこのまま死んで行くのかも知れない。灰の中に身を焼いてしまうのかしら。無意識に「死にたくない」とあせる心。どっちにげてよいか見当がつかない。その間に目の前が少しずつ明るくなった。

 友の姿を見ておどろいた。血まみれになっている人、火傷やけどして皮膚ひふが真黒になっている人、かみの毛は逆立ってぼうぼうになっていた。普通ふつうなら、すぐ目をそらせたくなるような姿である。私の黒く焼けただれた手からは、油があせのように流れている。異様なにおい

 このままここにいてはだめだ。んなのげる方向にとぼとぼついて行った。あちらこちらで助けを求めるさけび声。コンクリートのかべに下半身下敷したじきになって泣きさけんでいる人。家屋の下の方から「助けてくれ、助けてくれ」というさけび声。しかし、だれもそんなことには無頓着むとんちゃくで走り過ぎていってしまう。

 それからどのくらいさまよい歩いた事か。変り果てた街は方角も何も分らなかった。

 ある橋のところに出た。それは後になって知ったのだが、比治山橋ひじやまばしであった。電柱につながれた馬が、血みどろになってあばれていた。暑い日光を浴びながら、跣足はだしでその橋をわたり、川端かわばたこしをおろした。すると、他の学校の女学生達が、これもあわれな姿すがたで全身に火傷やけどをおって、「水が飲みたい」、「水が飲みたい」と言って、きたない川の水を飲んでいる。橋の上の方から「水を飲むと死ぬぞ」とだれかがどなる声がする。苦しいのであろうか、1人の女学生は川の中に入って行って、「早く死にたい」と泣きさけんでいた。

 私は、丁度そこに来合せた救助隊の自動車に乗せられて宇品に運ばれ、船で似島にのしま避難ひなんさせられた。船の中では、全身はだかになって火傷やけどした1人の婦人がくるったように身をもだえて苦しんでいた。似島にのしまに着いて丁寧ていねい治療ちりょうを受け、ここで五日間、私の一生忘れることの出来ない生活が始まったのである。

 板の間にむしろき、その上に毛布を一枚いて雑魚寝ざこねである。あっちこっちにもつぎつぎに死んで行く人々。それが毎日で、死人と生きている人との区別がつかないほどである。

 2日目のことである。となりていたお姉さんらしい人が、今にも息をひきとろうとしたとき、ただ一言「お母さん」といって死んでいかれた。丁度その時、1人の婦人が入ってこられた。その人のお母さんであった。「お母さんは、貴女をこれまでずっと探しましたのよ。早く来てあげればよかったのね。少しおそかったのね」と死骸しがいに取りすがって泣いていらっしゃった。みんなもらい泣きをした。私も早く父母や兄にあいたい。家に帰りたい。一刻も早くと思ってもどうすることもできなかった。

 5日目の昼過ぎ、突然とつぜん私の名を呼ぶ声に目をあけた。あっお父様、幾日いくにちぶりにお会いできたのかしら。目からなみだが流れた。父も男泣きに泣いて、その間一言も口をきく事ができない。ただ、「よかった」「よかった」と泣くばかりである。この時、父ともしめぐりあうことができなかったら、一体どうなったろう?今思ってもぞっとするのである。

出典:広島平和文化センター(編)『被爆体験記集 被爆地別 五十音別 第23巻』厚生労働省 2002 p.125-126


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